「自由度」を手に入れる為に必要なこと

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世の中には「天才肌」というか、凡才レベルで四苦八苦している人たちを尻目に、何をやっても短期間で素晴らしい結果を生み出してしまう人達がいる。

同時に、決して手を抜いているのでは無いんだけれど、とても勉強熱心で、まじめに取り組んでいても、何故かなかなか良い結果に辿りつけない人も沢山いる。

「天才肌」の人たちは、凡才の人よりも多くの時間や労力を何倍も費やしているからこそ、そうした結果を生み出しているのかというと、決してそうとも言えない。観ていると、むしろ働く時間は短いし、最近よくいわれている「時間の自由人」というポジションで、自分の好きな趣味やライフスタイルを自由気ままに過ごしている傾向が強い。それでいて、経済環境はしっかりと確保している。

どうして、こういうことが可能なのか…。これは従来の「常識」の枠組みの中では到底考えられないことだ。

一番大きい要素は、「現代社会の奴隷制度」の枠組みに入っていないということ。

つまり、「雇われ人」のステージにいる限り、通常は自分の自由な時間など優先されない。自分で事業を立ち上げる「起業者」も同じ。

数年前に流行ったロバートキヨサキが書いた「金持ち父さん貧乏父さん」でいう、4つのカテゴリーでいう左側の2マスだ。

自由度を上げたければ、右側の2マスゾーン。つまりビジネスオーナーや投資家にならなければいけないという考え方。ビジネスオーナーは、社長を何人も雇用し、基本的に自分は現場には降りて行かない。だから比較的自由な時間が捻出出来る。

IT世代の20代から30代の若い人に、このタイプが増えている。

最近、あるIT関連の起業セミナーに参加してみて感じたことは、数年前は年配の人を探すのを苦労したのが、今や20、30代よりも40代以上の年齢割合の方が圧倒的に多い。中には70,80代も。明らかに時代の流れを感じる。

こうした人達は、「このままではまともな老後生活など夢のまた夢…」だと。自己保身の派閥争いに明け暮れ、選挙当選することばかりを考えている政治家などに頼らず、自分たちで何とかしなければ…と準備している。

或いは、積極的な経済活動から離れ、田舎で半自給自足をしながら、ITでの副業生活を適度に取り入れながら、人生をゆるりと楽しむ人達も現れている。

今ほど、その気になれば、自由な人生を選択出来る時代は無いと思う。10年前と比べれば、今の方が遥かにIT環境は贅沢なほど整備されている。

都会で経済活動の拠点を置かなければ、どうしようもないということは無くなった。むしろ、田舎の方が食糧事情の環境が整っていることが多いので、生活をする上で、食べる分ではそれほど困ることは無いかもしれない。

昭和の世代で生きてきた我々などは、良い高校や大学を出て、しっかりした企業や職場に就職し、或いは安定した公務員になって働くことが、先ずは「最も一番安心するゴール」だと、私たちは小さい時から周りの大人達や学校の先生達から何度も何度も”教えられ”諭されてきた。

そうした場で汗水たらし、心身を酷使し、一生懸命に働くことは、世の中や人々の為に貢献することなんだから、「それが一番良いんだよ」と…。

でも今や世の中を見渡してみると、実際はどうだろう…?

一生懸命に自分の命を削る思いで働き続けても、給料は一向に上がらないし、社会の中での生活環境はどんどんと厳しくなってきている。税金、福祉、介護、年金…。将来のことを考えると、とても「ハッピーな気分にはなれない」ということを感じる人はとても多くなっている。

「一番それがいいんだよ…」という大人の言葉を信じて、一生懸命に取り組んで来た末が、”これ”なのか…?

素直にそう感じているのなら、まだまだあなたは今の現実を変えていく可能性が在る。何故なら、本当に今のシステムは、私達日本に住む人間にとって、幸せに導いてくれるシステムなんだろうか…というこれまでの「常識世界」に違和感を覚え始めているからこその疑問や怒りだからだ。

そもそも、日本の教育のシステムは”横並びこそBEST”という前提に立っている。つまり個人個人のパーソナルな個性や能力に合わせ、その個人の潜在的な能力を発露させていく教育なんてことは全く価値感に入っていない。あくまでも、”横並び”の中での優劣を決めていくシステム。

だから、「制服文化」が幼少期から浸透させられているし、誰もこのことに違和感を覚えない。

皆と同じことを行うことが、「常識人」として評価を受け、大人のいうことを自分の考えを抑え、そのまま行動することが「素直で良い子」と受け入れられる。

学校だけではなく、会社や職場でもこの価値感はずっと継続していく。

少し高い次元で、この事を考え、俯瞰(ふかん)してみて欲しいんだけれど、これってまさに”奴隷教育制度”そのものなのだということが見えてくる。

上部に立つ人間の仕掛けるある施策や方向性に、如何に疑問を持たせずに素直に従わせるか。

そこに個性を活かす配慮はほぼ無いし、制服を着させ”没個性化”で生きることこそが「楽で正しい」という生き方。

何故、社会はこういうシステムを取り入れる事になって来たのか、という話は長くなるので、ここでは触れないけれど、簡単にいえば、戦後、日本は戦争に負け、勝利国のメリットになるようなシステムを受け入れざるを得なかった。彼らにとって、日本人の没個性化が必要だったということ。

元々、日本人は狭い国土の中で、集団として他と上手くやっていくさまざまな知恵や文化が根付いている国だった。「没個性」というところまではいかなかったけれど、必要以上の個性をアピールしてまで、場の全体的な調和を乱す文化性は薄かった。戦後、その特性を緻密に研究され新しいシステムに組み込まれ活用させられた。

例えば心の価値感にも繋がっている「食文化」の側面でいえば、日本で古来からずっと続いてきたお米の「御飯文化」が小麦の「パン食文化」に変えられてきたのもその一環だ。

昭和の時代、小学校では家庭で作るお弁当を持参するのが当たり前だった。

冬などは、教室のストーブに、この冷たくなっているお弁当を温める鉄と木製の枠組み保温器が在って、皆、その中に冷えた持参弁当を入れ、温めて食べた記憶が残っている。

しかし、戦後、敗戦国政策の一環で、年月と共にそうした米食から小麦の輸入を重視する政策が進められ、今のようなパン食文化に繋がって来ている。

焼きたてのパンはとても美味しいけれど、こうした「食文化」が生む新しい生活スタイルや、それと同時にそこにまつわるガンや病気…。こうした社会問題から、巨大な医薬品メーカーや世界規模の農薬会社等、新たな経済市場が創出されていく等々、欧米誘導によっての、人の健康や命と引き換えに新しい経済市場に繋げられているという、ある意味、負の遺産にも繋がって来ているということは、余り普通の人々は深くは考えない。

普通の人…というのを定義させるのは難しいけれど、敢えていうのなら、”横並び”の価値感に、それほど違和感を感じない人、と言えるかも知れない。

話を先程の冒頭のことに戻すけれど、「天才肌の人」というのは、この「没個性で生きる」というポジションの『対極』で生きている人だ。つまり従来の「常識の枠」にはこだわらない思考法や価値感を持つ。だからといって、人や社会に迷惑をかける生き方では無い。

普通の人とは異なる、一つ上昇した次元の視点で、場を眺め、分析し、自分の人生に足りない学びを得ようと努力をしている。

彼らは、今までの価値感では、これからの日本で幸せに生きていくことは限りなく難しくなっていくということを理解している。これまでの「常識」という世界が、今、崩壊し始めていることを、誰よりも肌感覚で実感している。そして、この枠組から逃れる知恵と技術を身に付けないと、小さな歯車やネジ部品の一つとして、そのポジションの変わりなどはいくらでも他にいる、”単なる消耗品”として生きていかざるを得ないことを理解している。

昔の歴史を紐解いてみると、お金で売買されてきたピラミッドの建設や、アメリカの荒れ地の開拓で集められていた奴隷達とどこが違うのか。誰かの利益のために組織されている労働提供者でのワンピースとしてのポジション。一生を家のローンの支払で終わる人生…。

多くの人は、学校では没個性の教育を受け、本当にそれが自分のやり甲斐を持つために出会った仕事なのかは有耶無耶なまま、生きる為に仕方無しに就業している現実。これこそ”現代の奴隷制度”のシステムそのものではないだろうか。しかも、一旦そこから脱落すると、今の日本では敗者復活させてくれるシステムは殆ど機能してないのが現状。

だから、「天才肌の人」は少しでも油断すると、直ぐにこうした「現代社会の奴隷制度」の枠組みに戻されてしまうことを、非常に警戒する。そこに組み込まれてしまう以上、確実に自分の自由が拘束され、命と同じ意味を持つ「時間、労働力体力」を、誰かの為に差し出さなければならなくなるからだ。命をかろうじて支えるだけのギリギリのカネのためだけに。それは奴隷と同じだ。

奴隷の世界で生き続けていく限り、働けど働けど…どんどん窮屈で自由を奪われ、そして経済と精神の両面での貧困の世界に突き進んでいく。

「天才肌の人」は、このことを誰よりも理解しているために、普通の人とは同じ価値感では生きないようにしているし、飽くまでも自立、独立して生きるように最大限の努力を惜しまないようにしているのだ。

こうした「みんなと一緒が安心」という日本の「横並び文化」は、ある意味、集団で社会的な日常を生活する上では便利であり、非常にコントロールさせやすいシステムではあったけれど、
ここ10年、ITの普及整備が世界中で急速に進み、それまでゆっくりとした社会の中の価値感の変化や情報の入手出来る量や速度が、一気に数百倍になってしまったことで、それまでの人々が持つ価値感がゆらぎ、経済や、教育等、あらゆる場で「制度疲労」の現象が次々と表れ始めてきた。

例えば、経済ではどうか。昔と違い、今はお金の動きの多くは、実際には現金を動かす場面よりも、実体の無いデーターを動かすことで、経済の仕組みは動いている。

サラリーは振込だし、買い物もカード一つ、携帯端末一つあれば簡単に済んでしまう。銀行への貯金も、投資もほとんどがデーターという世界で動いているに過ぎない。

こうした動きから、最近は暗号通貨等の新しい貨幣制度の動きも加速されてきている。

教育の世界ではどうだろうか。この分野ではまだまだ日本は相当に遅れていて、未だに政治に携わる人達は、殆んど真剣に取り組もうとする姿勢を感じることは無いけれど、アメリカ等の欧米では、学校に行かなくても、家庭で高校や大学までの教育システムを受講し、学ぶことが出来るカリキュラムが非常に充実している。

ここ2〜3年、やっと東大や法政大学等でも、試験的に一般人への公開講座等をITで始める動きが出て来たけれど、実際の内容などは、文化教室で行われているような講座が殆どで、社会で通用する教育プログラムが無料で受講できるような欧米と比べると程遠い。

人間関係で苦手な子どもや、通常の学校教育環境では、自分の子どもが持つ個性や潜在的な能力が発露されにくいと、親が判断すれば、ITのシステムを使って何処にいても教育を受けることができるのだ。卒業の資格は勿論のこと、そうした子ども達を受け入れる就業への社会的なシステムも進んでいる。

今はどんどんと時代の流れは早くなっているし、価値感の変化も早い。天才肌の人たちは、こうした情報の入手、研究、学びも、普通の人よりも敏感で、対処が早い。そして何よりもITに対する研究や導入にも柔軟性を見せる。

”普通の人”と彼らとの違いは、普通の人は「今が楽しく感じることを一番何よりも優先」していく。ほんのりと甘い香りの誘惑に勝てず、ダイエットのことなど後回しにして、目の前の湯気が出ている焼きたてのパンを、お腹一杯に為るまで食べ尽くす。

バターや牛乳、砂糖が意外に沢山生地に練りこまれているので、食パン一枚でも、茶碗の大盛りご飯に相当するような相当なカロリーが含まれていることも、何処かの週刊誌に書いてあったと頭の隅っこには残っているけれど、「今はそんなことどうでもいいや…」と。

そして数週間後…。体重計を見て愕然とする。そしてこのことを親しい友人とのお茶会で嘆き合う。「…ほんと、そうなのよね〜」と。

こうして、不安や懸念をお互いに傷を舐め合うかのように確認することで、(自分だけではなくて安心した…)と少しホッとする。このパターンを、人間関係、仕事、経済、健康、家庭、教育、家族関係、子育て等々、あらゆるジャンルの場で繰り返していく。ましてや、IT端末でゲームなどに没頭するような時間とお金と労力の無駄は決してしない。

彼ら「天才肌の人」は、観ている視点の次元が少し異なっている。

例えば同じパンの世界での事例でいえば、彼らの頭の中はこうだ。

「…この人達は、どうしてこんなに喜んでいるのか?」

「どうしてこのパンは、こんなにも美味しいのか?」

「このパンの何処に人々への反応を起こさせる要素が有るのか?」

「どうしてこの美味しいパンを、この職場の職人さん達が何度でも再現させられるのか?」

つまり、今起こっている現象を分析する視点から、常にものごとを眺め、「自分自身も楽しむ次元」と、「その現象を分析する次元」の二つを持っていながら、混同させないようにしている。

つまり「仕掛けてくる側の仕組み」を丸裸にし、「仕掛けられる側」の心理や行動の法則性を学ぶ。

それが、食のジャンルであれ、健康や人間関係、或いはお金や仕事のジャンルであれ、捉える視点の次元を一つ上昇させて、普通の人のように、単なる感情が揺り動かさせられるだけの価値感では、物事の決断をジャッジするようなことはしない。

その現象の「動き」が何故そのようなパターンになっているのかの根本次元を分析し、そこに働くある種の「法則性」を徹底的に見出そうとする。

そして、その「法則性」を自分なりに見出すことが出来た時、その現象を実際に再現出来るかどうかを実践の場で繰り返し精度を高め、自分のものにしていく。そして、事業を創出していく場なら、自分で会得したその仕組をシステム化させ、誰かに教え、自分の分身として委託していく。自分自身は全体のシステムをコントロールしていく場でのみ動き、現場作業には降りていかない。

「法則性」というのは、人間が普段の生活の中である程度不自由なく暮らしていく範囲の中でのものであるのなら、そんなに沢山必要となるものではないので、数個会得出来れば、結構いろいろな場面で応用すると、レバレッジ作用(テコの原理)で、最小のエネルギーでも、大きな効果が得られる。

例えば外国語の語学学習などは、数カ国語を自由に操る人に、どのようにして、マスターしていったのかと尋ねると、「一つの外国語をある程度まで習得していくと、同じような法則性を持つ語圏語なら、最初に外国語を学び始めるよりも、はるかに楽に習得できるようになれます。人間の脳はそのようになっているんです。だから、一つを取得するコツさえ覚えてしまえば、その気になればいくつでも同じようにマスター出来る。」という。

驚いたことに、一部を除き、こうした「天才肌の人」の多くは、元々本当に天才だった訳ではなくて、むしろ人よりも「学歴も能力も劣っている」と自覚している人が少なくない。

だから、普通の人と同じことをやっていても、絶対に勝てないし、社会の中で生きていくことが出来なくなるとの焦りや苦悩から、自分なりに生きていくための必要な知恵として、実践の中で会得されてきた傾向が見られる。

彼らの考えることの中に幾つか共通することがある。

それは、先ずは「あれこれと手を出さない」ということ。

そして二つ目は短時間で「0を1へと実現させる」ことに、何よりも一番関心を集中させる。

「これは!」というその一つだけに向け、何よりも「一点突破」で全勢力を集中させて、とにかく、「ゼロ状態」を「1状態」に持っていくこと。これさえ出来れば、あとはそれを再現できるようにすれば良いだけのこと。だから「1」にさせることが出来るか、出来ないかが非常に大きな意味を持つ。

今関わっている場には、この「1」への可能性が有るのか、無いのか…。そこを確認することが、何よりも大きな意味を持つという。

「1」が生まれるということだけが判れば、そこから「2〜100」は生まれるということが彼らには分かっている。「1」が生まれないということは、その方法ではいくら努力しても、「有」が無いということ。だから「1」の発生に非常にこだわる。「1」が生まれるということは、その延長に「100」が在るということだからだ。

そして、時間をかければかけるだけ、人間の感情は関心も薄れ、モチベーションが失われていく。今は成功を収めているものの、かつては挫折を多く体験している人間ほど、このことを体感的に分かっている為、「先送りする癖」は、そのこと自体が「致命傷」と誰よりも分かっている。

あと、人間の脳の仕組みは、「マルチタスク」つまり、同時進行的にいろいろなことを同じ時系列で処理出来るようにはなっていないので、下手なマスコミの情報に踊らされ、「マルチタスクで生きる人間は凄い!」的なことに決して騙されないこと。

一人でそんなことをしていると、確実に作業効率が下がる。結果、どんなに時間を掛けても、全て中途半端な結果に結びついていく。これが現実…。人間が一人で出来ることなど、たかが知れている。

物事で一番困難で難しく、現実化に必要なあらゆるエネルギーが必要なのは、「ゼロ」から「有」を生み出す過程。

これが最も一番困難で、大変な苦労が伴う。

それは普通ではびくともしない巨大な歯車に、最初の回転を与える時であるかのような、「ギギッ…」と最初の一回転が動き出すまでが最もしんどい。

本来は努力人で、一見「天才肌の人」は、このことをとても良く理解しているので、普段の日常生活の中で、なるべくたくさんの「法則性」を会得し、イザという時に、この「ゼロ」から物事を「有」にさせる力を養っておこうと意識をしている。

彼らは見えない所で、本当に多くの失敗体験を繰り返しているし、その都度、「あ〜またやっちゃった…」と嘆いてもいる、普通の感覚を持った人間だ。

少しだけ違うのは、この「法則性」の引き出しをなるべく多く持つように努力していることと、先ほどの二つ。

1)今やるべきこと一つに絞り、「ゼロイチ」を現実化させる。
「あれもこれも」と限り在るエネルギーを分散させないこと。

2)取り組むべき必要なことを「先送りしない」。

時間を掛けても3ヶ月。この間に全力で一点集中突破する。どんなに忙しくても、スキマ時間を使って5分でもいいから取り組む。その一点を具現化させる為に必要だと考えることは、時間を置かず、直ぐに出来ることから取り組む。

日常、毎日を、この「一点現実化」のために考え、許される時間の中で集中してエネルギーを注ぎこむ。

一見、天才に見える人は、こうした二つのことを、誰よりも徹底して行なっている。

可能なら、少なくとも従来の「常識」はそのまま受け入れず、少し高い次元から物事を俯瞰する癖を付けて考える。

少なくとも体験上…、完璧に出来なくても、これらを意識して日々を生きると、1年経った時、相当に今とは大きく違う環境や生きる力に想像している以上の変化が生じてくると予感します。

こうした現代の奴隷制度であるかのような教育システムや社会の参加システムから離れるほど、自由度は増すけれど、自由というのは常に自己責任も付いて回る。

だから、今、あなたの目の前の不快な出来事から一時的に逃れたいというレベルで、問題からいくら現実逃避しても、絶対に幸せには繋がってはいかない。

何故なら、問題からの現実逃避は「自立の精神」では無いから。
他人依存で生きているなら、自分の目の前に起こっている厄介な出来事を、真正面からがっぷり四つで向き合えない。ちょっとした問題や苦痛に出会うと、すぐにそこからまた逃げ出そうとしてしまう。こんなことを繰り返している内に、信用は失われ、自分への誇りや生きる自信も消滅し、どんどんと生活環境は劣悪になっていく。

それだったら、まだ、慣れ親しんできたこうした奴隷制度の元で少々の苦痛と共に流されて生きていくほうがマシだ。少なくとも、そこにはこちらの命の対価である労働と時間を差し出せば、確実に生きていくためのカネを入手するシステムが完備されている。

「自分らしく自由に生きる」ということは、強固な独立精神、自立精神、自己責任への観念が無ければ到底現実化させることは難しい。自由を勝ち取るには、それなりの犠牲が必要になる。自分の古い価値観を変革するだけの学びと実践、そしてその覚悟を強いられる。単なる”楽をする”という安易なことではない。

この国の事、政治家の事…。いろいろ言ったけれど、それでもこの国に生まれたことは、今の中東やその他自由度を奪われている国の人達と比べれば、奇跡の真っ只中にいるようなものなのだと実感する。

あなたが日本に今、生まれ生きているということ自体が奇跡そのものなのだということを、もっと大切に感じてみる必要があると思う。

道を歩けば、公園や駅等、至る所に命を繋ぐ水道が有り、100円コイン一枚で何処にでも乾いた喉を潤してくれるジュースやお茶が飲める自販機やコンビニ。光も電気もある。家に帰れば、雨が降っても屋根がある部屋で過ごせるし、冬の寒い日でも、温かい布団に包まって眠ることも出来る。

仕事を選ばなければ、殆どの人は何らかの仕事にあり付ける。体を壊し、働くことが出来なくなれば、11万程度なら一時的に国の保証を受けることだって可能だ。

その気になって必要なジャンルの勉強をしようと思えば、図書館へ行けばいくらでも無料で本が読める。

グーグルやヤフーで検索すれば、専門知識はこれでもかというくらいに入手可能だ。

起業をしようと思えば、IT環境を使って僅か数千円で出来るようになった。僅か15年前には、起業といえばリアルな世界で店舗や事務所を借り、数千万のコストが掛かった。それが今は、ほとんど毎日のランチ代で自分のショップやサイトオーナーになることが出来る。多くの人が集まるサイトは今や数百万、数千万で売れる時代だ。

トルコから日本に来たある人は、「こんな信じられない楽園のような国は今まで見たことが無かった…」と。

このような条件を誰もが使える国にあなたは今、生まれている。

この時代に、この国に生まれている私達は、奇跡の中のそのまた奇跡を重ねるような大幸運の真っ只中にいることを、もう一度考え直さなくてはいけない…。

その国に生まれ育っているあなたは、どう思われますか?

じっくりとこれまでの生き方を見つめ、表面的な常識観に囚われず、一つ一つ勇気を持って課題に取り組み、目標に向かって前に進むか…。

或いは「羨ましい…と考える側の人」として、現代の奴隷制度にドップリと浸って、日常に流され、これからも生きていくのか…。