「残念な人」の自己イメージ

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最近、あるクライアントさんから、「話しかけてこないで欲しい」とメールが来た。似たような体験が過去にも何度もあるので、「またか…」という感じでもあった。

今の彼女の心の中を覗くと、まるで自分は非力な小さな虫けらのような存在だと、自分を評価し、未来への希望も、生きがいも無くなっているのではと想像している。こういう状況になってきたいろんなアクシデントの経緯を観ているだけに、何とかしてあげたいのだけれど、丁度、タイミング的にその接点を拒否されてしまった。

長年、冷静に見続けていて、この人には半年ごとに周期が在って、人生を前向きに捉えることが出来ている良い時期と、精神的に後退してしまう悪い次期。この二つがいつも交互にやってくる。自分の中に存在している、ある種の価値感を、「変えたくない」という価値感で固めてしまっている。

世の中には、コンスタンスに良い結果を出す人がいるけれど、大半の人はそうはいってない。

”最も残念な人”は、潜在的に力量があるのに、自ら崖っぷちにつかまる自分の手を離し、”奈落の底”へと自分から落ちていく人だ。

そもそも、そういう状況になっていることそのものが問題だけれど、先ず、今の危機的な状況から逃れることを最優先しなければならない。

なのに…、”残念な人”は手を打たない。行動しないのだ。

苦しいこの現実の、感情的な苦しさばかりに意識を向けていて、一番肝心な、どうすればこの今やって来ている”苦しさ”を「根本次元」から排除出来るかの、如何に自分を救い出すかに、意識を向けようとしない。

状況をそのままにしておけば、ますます事態は悪化する。これは火を見るよりも明らかなのに、感情に支配され、「考える」という問題解決への原始的かつ初歩的な行為が出来ない。思考が殆ど停止している状態。

(多分…、ここまでの状況になる場合、相当に精神的に追い込まれているため、直ぐにでも専門医に診てもらう必要性を感じている。薬では一時的対処にしかならないので、現実には、脳への栄養、腸環境を整える食生活、日常生活の取り組み、家族の協力等、総合的なプロデュース、カウンセリングが必要になる。)

この人にはとても気の毒だが、そもそも、例えば「喉がカラカラに渇いた…。どうしても水飲み場まで連れて行って欲しい。」と懇願され、水飲み場まで、その人を案内したとしても、本人がその水を目の前にしても、一向に飲もうとしない限り、本人の喉の渇きを潤すことは出来ない。

いつも結果が出せない人は、こうした「水飲み場」の情報や、現地を目の当たりにしても、そういう折角の場を活かさないことを無意識に選択する。だからいざとなると、一向に実行に移そうとしない。いくら、こちらが誠実に誠心誠意を尽くしても、その思いは伝わらない…。心の自己免疫機能が、頭では分かっているつもりの自己変革願望を強烈に拒絶し、イザという時に”心の不快感”として邪魔をする。

こうして自分が長年慣れ親しんでいる生き方のフレームを壊さないように、適度に”自己変革ゴッコ”をしながら、何となく生きているという人生を過ごす。時々、私はここにいるよ!とアピールしたい次期が周期的にやってくると、いろんな形で自己表現が始まる。

中には、時間軸の経過とともに、自らが谷底に落ちていくように仕向けていく人もいる。無意識にその生き方を選択するため、こういう人はどうすることもしてあげられない。本当に残念でならない。

まるで不幸に陥るのを、無意識ながら、自ら楽しんでいるかのよう。(実際にこういう状態は心の病状態。専門医の要受診ゾーンに入っているので、自覚が有る方は早急に専門家や専門医での受診をして欲しい。)

何度もこれまで話を繰り返して来たけれど、「今の状況は、なんであれ、あなたがかつてずっと昔に強く思い描いてきた自分の様相」が、未来からやってきた結果なのだということ。

健康、時間要素、経済、家族、人間関係、仕事、生きがい等…、そういう、いろいろな要素が複雑な縦糸、横糸が織りなす絨毯模様のように一つの絵(現象)として集約され、今この場に現実化されてきている。

折角の自分の今の”困った”を解決に導く場を提供しても、そもそもそれを素直に受け入れることが出来ない状況に自分を置いていることが、その姿を昔からずっと未来の自分の姿として描き続けてきた結果だとしか言えない。多分、無意識にだろうけれど。そういう思考のクセがあるということ。ここに自覚が出来ていない。

だから何度も同じパターンを繰り返す。一大決心を持って自分を変えようとしないのだ。思い付きの軽い気持ちでは、「自分」をとても変えられるものではない。【一大決心】。この位の「心の大改革・大事業」という次元での価値感を持たないと、人間の心や精神、価値感は簡単には変われない。だからこそ、自分と向き合う時間をたっぷりと使って、自分の本質や資質を整理整頓させる段階をゆっくりと踏む必要がある。特に欧米人と異なる日本人の脳は、本来がそういう特性を持っている。

自分の持って生まれた生命の使い方への意味付けが解って来ないと、「自分の生き方」など大して重要視しない。自分の生き方への無関心…。「それが無知人間の人生の始まりなんだよ」と伝えても、こういう人はピンと来ないし、問題が起こってから初めて慌てふためく。それを何度も何度も繰り返す。でもその事自体にも何も疑問さえ持たない。「大衆」ゾーンに生きる人間として、それで月日が流れていく。

時間軸は、過去から未来の流れだけではなく、「未来」から「現在」に流れていると考えている方が、結果的にうまくいくことが多い。この考え方で物事を進める方が「本来、最も在りたい自分」を上手に現実化されられる。

学校ではこの真逆、つまり、今の積み重ねが未来を作っていくのだということを”常識”として教えられ続けてきているけれど…。これも「アリ」だが、余程、強靭な意志力を持っていないかぎり、この時間軸での思考手順では、大半が挫折する。凡才レベルではとても成功できない。凡才だからこそ、人とは違う視点を持たないと、良い結果などとても出ない。

世の中の殆んどの人が、自分の人生構築が思うように行っていない現状を観ている限り、世に当たり前に溢れかえる”常識”の多くに、ホンマかいなそれ?という観点を忘れないように掘下げてみることは、決して無駄なことでは無い。

多分…、そう言ってもやはり多くの人はこれまでの慣れ親しんだ考え方、慣習を何の疑問を持たずに続けていくと思うけれど。

でもこれが「残念な人」の共通している特徴でもある。

「本当に相応しい自分のあるべき姿」へ思いを馳せ、その実現化へと人生を一向に変えようとしない。…というか、変えられないのだと感じる。何故ならば、「自分は変えられない」という自分を強く内面に描いているから。

実は、こうしたことは結構世の中や、日常で多々見られる。こうした、何らかの痛みを常に感じる「残念な人」が、実は「大衆」という場に生きる人間の種類であり、そういう人が経済の原動力、世の中の構成要素として活用されている。そして、そうした大半の人間群から逃れた1〜3%が、この「残念な人」を活用している。つまり「仕掛ける側」に立つ人間。

最近、ある著名な方のセミナーを受講したとき、ボードに移し出されるある方法についての行動手順情報や、その根拠データーを、スマホ端末のカメラ機能を使って次々と「バシャリ!」と撮るだけで、後は漠然と話を聞いているだけ…。という人が結構な人数居た。中には筆記用具さえ持ってこない人も居る。居眠りもし始めるし…(こういう人は何の目的があって参加しているんだろうか…しかも高額なセミナーなのにだ!)。

こういう人達の一番の目的は、何なのか?

人間を研究する側としては、むしろセミナーの話よりも、その人達の動向に興味が向いた。

じっと観察を続けていると、何であれ、自分の興味あるジャンル系情報なら、取り敢えず集めておこうという感じで、何でも情報収集することに非常に高い反応を示す。情報というデーターを自分の端末機に集めることで、精神的な満足感をジワジワと会場全体に漂わせている。

そして、情報収集を「効率化させるツール」などがあると、わっとそこに集まってしまう。…。そもそも何の為にその情報を集めていたのか…という、最も肝心なキモまで、いつの間にかどうでもよくなってしまっている。

彼らの何人かに聞いてみた。「そのデーターって、後でじっくり掘り下げて研究するの…?どの位の頻度で見返すの?」

返ってきた答えは「正直言えば、殆ど見ないことが多い…」と、バツの悪そうな表情とともに、痛いところを突かれたという感じだった。

怖いのは、相手からマーケティングテクニックで「仕掛けられている」という客観性も見失い、感情を揺さぶられるアプローチに、いとも簡単に乗っかっていく…。つまり、「仕掛け」を見破ることが出来ないままに、情報に乗っかって行く。皆が流れる方向に、何等疑問も持たずに同じようにその流れに乗る。「あっ…今、”仕掛けられてるな”」と感じることが出来ないのだ。

自分の特質や資質をきちんと把握した上で、〇〇という方向性を持って人生を構築しよう!という、人生軸を持った上でのセミナー参加なら意味はあるけれど、何も無い状態で、むやみに情報をかき集めた所で、何が必要か、必要でないかの区別すら出来ないなら、それらは必ず”ゴミ化する”のは目に見えている。

こうしたセミナーのほぼ99%は、「道具集め」或いは、「その道具の使い方講座」だ。どれだけこうしたセミナーに参加しても”ツール収集家”になってしまう。そうではなく、もっと自分の本質部分、持って生まれた資質、特質をきちんと見出す、根源的な価値感部分を正しく掘り下げ、自分の価値感を整理整頓する技術を身に付けるべきだ。

「道具・ツール」の世界に触れるのは、それからのステージで充分。

自分を持たない人間が、いたずらにこうしたセミナー馬鹿の世界に嵌り込むと、あっという間に貴重な経済力や、時間エネルギーを、根こそぎ彼らに持っていかれる。その手法は有名人ほどエゲツナイことが圧倒的に多い。

先程の「水飲み場」の事例で言えば、巧妙なマーケティングに仕掛けられ、目の前に用意されているのは一見、水のような液体だが、それは次の乾きを強烈に感じさせ、水を求める購買へと連動させる”酒類”かもしれない。自分が今、本当に何が必要で、必要でないか。自分の特性、資質をきちんと把握した上での、人生設計なのだ、ということを知らないかぎり、こうした無駄な自己投資を何度も繰り返している人生で終わってしまう。

何度も繰り返して申し訳ないけれど、自分の特性や資質を見失っている状態では、何が必要か、必要でないのかの区別がつかない。

心がこういう状態にある人は、常に根本的に不安を覚えるため、不安心を支える心の杖のような感じで、何でもかんでもこれっと思うものを片っ端から集めようとする。まるでおもちゃに飢えている小さい子どものような状態…。

小さな子どもは、自分自身では何等疑問を抱えず、目の前にある出来事だけに”感情反応”を繰り返していく。この次元レベルで止まっていれば生き方が窮屈になる。社会参加や人との接点も苦手になる。

同じ子どもでも、周りの大人が「自然なものでも、ホラ…こうすれば充分におもちゃになるんだよ…」と実際に根本的な方法さえ教えてあげれば、子供たちはどんどん自分たちでイマジネーションを広げ、時間を忘れ、遊びの世界を広げていく。そして本来の自分の特性に、自然と気付きを得ていく。

東洋人、特に日本人は、元々自立心の高い欧米人のようなハウトゥーや道具を与えるステージよりも、こうした原理原則的な次元ステージから、ゆっくりと物事の道理を教え、自分の本質、特性を自らがゆっくり生成しながら見出していくという行程の方が、本来の特性を的確に創出させることが出来る。しかも楽しみながら…。

人間は本来、「楽しいこと」しか継続させることが出来ないように、脳が創られている。

近年、世界中の先進国中、「不幸を感じる」という項目で、日本人が最も多い国の一つとして表面化していることが注目され始めている。

仕事を選ばなければいくらでも仕事、求人情報が溢れ、どんな街に行っても、どんな田舎に行っても、飲める水が手に入る。蛇口をひねれば24時間いつでも飲める水が出て来る。(僕がかつて住んでいたアメリカの地域では、鍋一杯の水を溜めるのに、24時間も浄水器を通さなければならなかった…。)

電気は殆ど24時間停電することは無く、ワンコイン有ればいくらでも食べ物は手に入る。

IT通信環境はいくらでも使え、ネットショップ、学校、塾運営、専門市場起業が、かつては数百万の事業資金が必要だった起業が、今や、殆ど数千円レベルで行えるようになった。しかも政府の認可など殆ど必要無しに。こんなに豊かなのに…だ。

あるアジアの後進国に住む人が、こうした日本に来て一番初めに言葉で出て来たのが、「…日本はまるで天国のよう。私達の国では本当に信じられない奇跡のような環境が、当たり前に揃っている。」という言葉。

僕らは、今、この時代、このタイミングで、その奇跡のような国に生まれて来ているということ。このことをもっと掘り下げて考えなければならない。

目先の便利や効率のツールだけでは、自分の本当の幸せな人生構築、設計などは出来ないのだ…。

何故「不幸せ度」がTOPレベルなのか…。

現実と、真正面に向き合うということは、得てして心や精神に「痛い」を感じることが有るため、なかなか覚悟と勇気、大きなエネルギーが必要だけれど、いつまでも真正面に向き合うことが”辛いから”と言って、今に流され続け、その辛さを取り除く根本を探ることから逃げてばかりの日々なら、多分…、これからも本当の幸せを実感することなど決してやってこない。

自分の本質を理解することが出来ないかぎり、これからの歩んでいく人生の方向や、命の使い方さえ、分からないままに漠然と漂うままに月日に流され続ける。生きがいも、何の疑問も自分に問わず。慣れ親しんだ習慣、馴染んだ価値感、”常識”という慣習…。

あなたはこれからもずっとずっと「残念な人」として生きていくのか…?

この「奇跡のような国」に生まれているにも関わらず、
何故「不幸せ度」が世界でもTOPレベルなのか…。

このことを良く考えて欲しい。

自分の本質を見いさせない限り、満たされないと感じる”不幸感覚の連鎖”はいつまでも続いていく…。