”良い知性の力”は消耗する

昔、まだ小さな子どもだった頃の話です。

今は亡き親父はとても不思議な人で、表向きは「酒屋のオヤジ」、
副業?で「魚市場の副代表」をしていました。

しかし、家にはある時期になると、市長や警察署長、税務署長、
教育委員会の関係者達が度々やってきては、敷地内の離れの座敷で
何やらヒソヒソと「大人の会話」というものをやっていたようです。

一度だけ、親父の机の上に置いてあった、それまで見たことも
無かった彼の名刺には、表の仕事以外の肩書が書かれていたので、
きっと、これらの教育・政治色が強い人々が、表面的には何かと
解決しにくい様々な問題や案件の相談に乗るような仕事を
していたようです。

そんな「お客様達」は、酔っ払うと何故か我が家のお風呂に
入っていくのですが、不思議なことに何故かパンツのままで湯船に
浸かっていることも多かったのを思い出します。

多分、旨い酒とさかなを堪能し、それまでの難題が解決した事に、
「仰圧している精神状態」が一気に開放され、安心した状態を
満喫していたのかも。

特にこうした職業に立つ人は、一般人よりも心の仰圧を
強く義務付けられるので、気心が知れる人との交流の場では、
つい気持ちが緩む。

彼らも生身の人間ですから、よくある建前論のように、
常に厳格な”自己統制を24時間、365日続けるのが当たり前”、
ということは現実的にはあり得ない。

過剰な自己コントロールや心の仰圧は、そのまま放置しておくと、
必ずリバウンド現象が出ます。

”良い知性の力”は消耗する。

そう。自分を良い方向に導く為の”良い知性”を保つ意志の力は、
筋肉を使うのと同じように”消耗する”んです。

”適切に”トレーニングしないと。

自分の内面と見つめ合い、自分自身の「思考回路」を眺め、
良識への神経回路が太くなるように日々「トレーニング」を
していないと、すぐに欲望的な回路が太くなってくる。

そして自分の利益誘導を最優先する「過剰なる欲求・欲望思考」は、
バイキンやウイルスと同じように、そのまま放っておくと自然増殖し、
必ずといっていいほどの確率で、やがてどこかで”致命的な落とし穴”にはまる。

つまり、自分の精神のバランスを調和的に保つ技術や、
このポジションにいることの強い価値観を持っていないと、
過剰な自己仰圧のエネルギーが暴発すると、それまでの無理した
生き方の精神面のアンバランス、苦しさを取り戻そうと、
「もうどうなってもいいや」と、自己破壊、暴走に走ることがある。

「生き方の志・こころざし」を既にきちんと備えている人はいいけど、
そうでなく、たまたま何かの機会で、周りからそういうポジションを
与えられてしまい、まだ精神や心の準備が整っていない人は、
”地位栄誉”という「餌」に慣れた頃、素の自分が見え隠れすることが
多々ある。

だから、どこかで歯止めがかかるように手を打たないといけない。

この場合の「トレーニング」とは、尊敬する人の生き方に触れたり、
さまざまな書籍、知識啓蒙、自分を整え取り戻す環境作り、
趣味、運動、静寂な場、等々…。

「自分自身をすり減らしている人」

「慢性的な不安にさいなまれている人」

こうした人は要注意です。

リバウンドは、得てして自己破滅的、破壊的な行動への強い欲求が
起こることがあるし、そのプロセスには、結構奥深い幼少期からの
メンタルボトム(底辺)部分に残る要素が影響を及ぼすことも
少なくない。

理解しておきたいのは、自分にただただ厳しくしていても、
こうした心を強く仰圧し続けるという意志力は強くならない
ということ。

「意志力」は「筋力」と同じように消耗するんです。
これは多くの実験で科学的にも米国では認知されてきています。

何も手を打たなければ、いつか疲弊という限界がやってくる。
当たり前なんです。

真面目な人ほど、こうした仰圧した状態が破綻したとき、
自分を責めて、「自分はなんてダメなやつ」と自己批判を
してしまいがちだけれど、決してダメじゃない。

「自己批判」はますます心のモチベーションを下げ、行動の質を低下させ、
自己コントロールが出来なくなってしまうだけです。

先にも言った通り、自分を良い方向に導く”良い知性”というのは、
筋肉と同じように”消耗する”ということ。

だから、先のように適切な「トレーニング」を行わないと、
メンタルのキャパが直ぐに小さくなってしまう。

だからといって「そういつも大岡越前のようには振る舞えない」
というのが普通だと思うので、先のトレーニングの中に、
「心の折り合いを付ける」という項目を用意しておく。

つまり、普段は自分には許してはいないことを、心の限界を感じた
非常時に、「この辺りまでは許す」という決め事、つまりルール化
をいくつかしておく。

この「ルール化」のボトム部分、底辺には”自分を甘やかす”という
感覚ではなくて、「自分を思いやる」という配慮をするのが大切。

真面目な人ほど、結構、厳格に自分を律することを目指してしまう
ので…。結局、精神の我慢する境界線が切れてしまう。

「自分を思いやる」という世界のルールを創る場合に、
先ず、全体の底辺には【ならぬものはならぬ】という絶対法則を決める。

これは自分の「精神の誇り」というべき性質を持たせる意味でも
とても重要です。何でも有りきではいけない。

人間の心は、欲望的で悪い環境には直ぐに慣れてしまう性質がある。

そして、堕落、怠惰という世界を覚えると、それには限界が無いので
どこまでも底なし沼のように堕ち続ける。

だから、どこかで歯止めがかかるように、自分の「人格への誇り」
が最低限は保つことが出来るラインを必ず決めておかなくては
いけない。

これだけは絶対にやらない!というライン。
誰がなんと言おうと【ならぬものはならぬ】という世界。

さて、その中では、先ずは「減らすこと」を決める。

一番、安易にやってしまいそうだが、それをしていると、
いつまで経っても自分を苦しさから救えないという項目。

次は「しないこと」を決める。

それをしないことで、自分自身が自然に救われること。

最後に、「するべきこと」を決める。

それを行い実践することで、積極的に自分自身を立ち直らせ、
精神を奮い立たせられるもの。

そして、いざ実践する場合には、先ずは「するべきこと」を行い、
上手く行かなくなった時は、「しないこと」を行う。
さらに上手くいかない場合は、「減らすこと」を取り入れる。

そして、こうした流れを取り込みつつ、その流れの中で、
頃合いを見ながら、「するべきこと」のレベルを
なるべく保てるように心がける。

万が一、上手くいかない自分(相手)を過剰に責めてはならないし、
また、責める必要も無い。でも、振り返りと反省は行う。

「責める」と「反省」は全く別の次元のもの。

「責める」は、未来への扉を全てシャットダウンしてしまうもの。
「反省」は、未来への道と歩み方を常に意識したもの。

そして、人間なんて、せいぜいその程度なんだ、という
「許し」と「思いやり」を忘れないようにしつつ、
極力、微調整を繰り返しつつ、掲げたレベルを保てるようにする。

目標の半分よりちょっと上、つまり、感覚的に大体65点位で
行えたらそれで良いと、自分を思いやってあげるほうが、
長期のスパンで捉えると、想像以上に良い結果が残る。

心や精神状態が既に限界値に来てしまい、ボロボロになっている時は、
過剰な心の仰圧や自己批判は止め、自分を思いやる”ユルユル”の
枠組みの中で心の立て直しを取り組むほうが良い。

「心の折り合いを付ける」ということに意識を向けて、
元気の回復度合いを図る為に、必要なら専門家とも相談しつつ、
あなたの価値観、心を深く理解してくれる人を探し、
”上手く出来ない自分”も、優しく取り込みながら、
焦らず、ゆっくりじっくりと心の傷を修正していく。

「自分を思いやる」

これを忘れないでくださいね。

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